映画感想『アトランティス/失われた帝国』
ぐーてんもるげん!
初めましてが済んだのでいざ内容を書いていこうかなと思いまして、まずは直近見た映画の感想をば。
映画の感想、実は今までずっとTwitterで書いていたのだけど、今回はブログにまとめてみようと思います。
140字以下の短文の乱れ撃ちと長文でまとめるのとではまた勝手も違ってくるから上手く書けるかは不安だけれども、まあとりあえずはやってみよう!
ということで、今回見た映画はこちら。
アトランティス/失われた帝国
2001年公開のディズニー映画。
ざっとしたあらすじは以下のような感じ。
博物館勤めの言語学者マイロは、祖父から引き継いだ独自のアトランティス研究を公表しようとするも誰にも真に受けてもらえない。
そんな折に、祖父の親友の援助を得てアトランティス探求の旅へのチケットを手に入れる。
自分を邪険にしていた探検隊の仲間から徐々に信頼を得ながら、マイロ達一行は遂にアトランティスに辿り着く。
そこでマイロはそこで生活していたアトランティス人の王女キーダと心を通わせる。
しかし、探検隊の司令官ロークはアトランティスのクリスタルで金を得るべくアトランティス人に銃を向け、クリスタルと一体化したキーダを拐う。
キーダを助けるため、アトランティスの文明を守るため、マイロは仲間達と共に戦うことを決意する。
今調べて知ったのだけど、実はこの映画が公開された2001年はかのウォルト・ディズニーの生誕100周年の年だったそうな(ソースはwiki)。
あまり知名度の高い作品ではなく、人からこの作品のタイトルを聞いたことがあるなんて人も少ないのでは…
そんな本作だけど、とあるディズニー好きの友人が過去におすすめしてくれていたこともあり今回吹き替え版を見てみることにしました。
ネタバレが含まれるので苦手な方はご注意下さいませ!
感想
まず感じたのは、この映画の面白さは映画としての面白さではないな、ということ。
面白さの種類としてはエンターテイメントの一分野である映画としてのそれではなく、むしろドキュメンタリーのものに近いかなと感じたんです。
映画としての面白さを追求する作品なら、観客をより惹き付けるための展開の緩急や強調、脚色が重要になります。
だけど、この映画にそのような要素はあまり見受けられない、というよりあえて入れていない。
それが顕著に見られるシーンが、主人公マイロに対しその祖父の友人ウィットモアがアトランティス探求の冒険のための準備を見せるシーン。
アトランティス探求にマイロが必要と言ったものはウィットモアの手によってノータイムで用意されるんだけど、その準備の過程は全てカットされ、結果だけがぽんぽんと並べ立てられていく。
内容を脚色せず、ただ不要な部分は全てカットし必要な部分だけ観客に見せる感じがドキュメンタリーに似ているなあと。
きっとこの作品がエンターテイメントとしての映画の面白さを追及する作品だったとしたら、準備に当たってのウィットモアの苦労苦節が描かれ、友人の遺志をその孫に託すというカタルシスを観客に感じさせるような脚色が施されていたような気がするなあ。
それからマイロには及ばないけど言語を学ぶ人間として、言語の持つ可能性に改めてハッとさせられました。
これは個人的な感覚なんだけど、言語って一人でちまちま黙々と学んでる時はつい「こんなことを学んで何の役に立つんだろう」なんて思っちゃいがちだったりする。
でも実際はそんなことはないんです。
マイロはシュメール語等の数多くの古代言語を学び、アトランティス語の解読に至った。
そしてそのアトランティス語によって探検隊とアトランティス人との橋渡し役になれた。
しかも、現代のアトランティス人でも読めなかったアトランティス語が読めることで、失われかけていたアトランティスの過去の多くの遺産を復活させることができた。
これは言語が異文化同士を繋ぐ橋としての横の機能、過去から学び現在へ活かす鍵としての縦の機能を持っているからなのです。
それは現実の我々にとっても同じことで、異国の言語を学べばその国の人と交流できるし、自国の過去の言語を学べば昔の自国の文化や歴史を知り教訓を得ることができます。
こうして書いてみると当たり前のように思えて、実はけっこう凄いことだったり。
個人的にこうして言語を学んだことが活かされているのを見ると元気付けられるなあ…。
そして、この映画の主人公のマイロのことについて。
これが色々考えてみると面白くて中々まとまらなかったのですよね…。
なのでとりあえず、①マイロの功罪 についてと②マイロの認識と行動指針の変化 について書いていこうかなあと思います。
①マイロの功罪
祖父から引き継いだ研究をひたむきに続け遂にアトランティスを発見し、最後にはアトランティスを救ったマイロ。
そんな彼のストーリーにおける功罪をみていきます。
前述のように、マイロは持ち前の言語学のスキルを使い、アトランティス人にも読めなかったアトランティス語を解読できてしまいました。
それは、人々に忘れられ死につつあったアトランティスの文明を甦らせることに他ならないのです。
それが最も分かりやすく表現されているのが、キーダのクリスタルを使って今まで動かすことのできなかった魚の乗り物を起動させるシーン。
マイロの尽力によりクリスタルの光に満たされた乗り物が再び動き出した瞬間、死にかけていたアトランティスの文明もまた息を吹き返したのです。
一方で、マイロはゆっくりと死に向かいつつも平和であったアトランティスに、ローク(と改心する前のクルー達)という金のために人を傷付け文明を殺すことを厭わない人間達を導いてしまったのも確かなことなのです。
マイロ本人は純粋に知的好奇心がアトランティスへの探検の理由で悪気はなかった。
けれどその純粋さを利用され、自らの手で息を吹き返した文明を金のために再び殺す手助けをしてしまった。
いかに高度な文明であっても、そこに暮らす人々が傷付けられ排斥されれば、その文明は死んでしまう。
マイロは作中でその事実に直面し、自分のしてしまったことの重大さに気付き深い自責の念に駆られます。
だからこそ、事件が収束した後マイロと改心したクルー達は生きたアトランティスの文明の存在を秘匿することにしたのです。
再び外部の人間の手によりアトランティスの文明が殺されることの無いように、同じ過ちが繰り返されないように。
②マイロの認識と行動指針の変化
マイロの認識と行動指針の変化においては文明の生死が重要なファクターになります。
これまでにも何度か書いたように、文明にも生死があります。
既に滅び過去のものとなった死んだ文明、そこで生きる人々がいて、過去の知識と遺産を使いながら生活している生きている文明。
アトランティスへの探検を始めた当初、マイロのアトランティス文明への認識は前者でした。
アトランティスははるか昔に海に沈んで滅びた古代文明であると。
ところが実際アトランティスに到達してみると、そこではまだ人が生きて生活していた。
確かに文字や技術などの過去の遺産は忘れられ失われつつあったけれど、アトランティスの文明はまだ生きていた。
この認識の変化は、アトランティス文明に対するマイロの行動指針にも変化をもたらしました。
当初マイロはアトランティスという既に死んでいる文明の存在を証明し、そこから得られたものを公表しようとしていた。
けれど物語の最後には、マイロはあんなにも切望していたアトランティスの存在を世界に証明しようとはせず、逆に秘匿し文明を守ることにした。
マイロのアトランティスへの考えと行動は、生きているアトランティスの文明を目の当たりにすることで変わっていったのです。
この変化はもちろん生きているアトランティス文明を目にしたことで起きたものなんだけど、実は一番大きくマイロに影響を与えたのはキーダと心を通わせたことなのです。
当初マイロは、研究者の視点からアトランティスの文明を見ていた。
けれど言葉を交わし心を交わすことで、マイロはキーダと研究する者される者の関係になるのではなく、同じ生きている人間として対等の目線に立った。
だからこそ、マイロはアトランティス文明を守る方向へと認識と行動を変化させるだけに留まらず、最後には生きている人間としてアトランティス人と共にあることを選んだのです。
最後にちょっと思ったことを一つ二つ。
古代文明の謎を解き明かす中で悪人が自分の欲望でその文明を利用しようとするSF作品というと、庵野監督のふしぎの海のナディアや宮崎監督の天空の城ラピュタなんかがよくこの作品と一緒に挙げられます。
この二作品はどちらもJ.ヴェルヌ作『海底二万里』にルーツを持つ作品。
ここら辺の詳しい経緯と関連性は他の人が詳しく書いてくれてるから調べてみるとよきですよ!
とまあ余談はさておき、題材やストーリーが似ているこの三つの作品の中で、アトランティスだけがラスボス(ローク)の目的が金であったことがちょっぴり意外だったのですよ。
上記の二作品では、ラスボス(ガーゴイル、ムスカ)の目的はどちらも古代文明に秘められた力を使った世界征服。
古代文明の持つ金銭的価値と軍事的な力。
どちらをメインに作品を作るかでまた変わってくるものがあるのね…。
という訳で、アトランティス/失われた帝国の感想でした!
こういうのをしっかり長文にまとめるの久々すぎて腕の鈍りが否めないのがつらいなあ…。
でもまあ、こんな感じで今後も書いていけたらなあと思います!
それでは〜!