映画感想『きつねと猟犬』
おねむのファルルだよ!
生活リズムがガタガタで寝不足だったり寝過ごしたりと褒められたものではない生活を送っております。
どう考えても自業自得だし直さねばなあ…
そんな中で私が見た今回の映画はこちら!
きつねと猟犬
1981年公開のディズニー映画。
ちなみに日本での公開は83年、東京ディズニーランド開園記念に同時上映のバンビと共に公開された映画をだそうな(ソースwiki)
ちなみにバンビは本国での公開は42年、日本での初公開は51年だそうな。
戦時中も映画を作り続けることのできたディズニーとアメリカ凄い。
まあディズニーも大戦前後はプロパガンダアニメとか作ってたらしいけれどね、そこの辺りも興味深いので今度ちゃんと調べてみようかなあ。
余談はさておきざっとあらすじ。
猟師に母を殺された子狐トッドは人間の夫人に拾われペットとなった。そこで夫人の隣人の猟師の飼っている猟犬の子犬コッパーと仲良くなる。しかし狐と猟犬という立場の違いから、やがて2匹は離ればなれになり追う側追われる側の関係になってしまう。成長し森へ返されたトッドは、追われる側の立場ながらも熊に襲われていたコッパーを助け、コッパーもまた追う側の立場でありながら猟師に銃を向けられたトッドを救おうとする。
といった感じ。
実はこの映画、見たことはなかったけど子供向けにノベライズされたものを昔読んだことはありました。
細かい部分は全然覚えて無かったけど、トッドとコッパーの出会いのシーンと最後のコッパーがトッドを庇うシーンは凄く印象に残ってたなあ…
感想
何よりまず感じたのは、動物を扱う作品においてはまず欠かせない「生き延びることの重要性」。
お金さえあれば衣食住に困ることはなく命を脅かす天敵もいない人間と違って、生きるか死ぬか、食うか食われるかは特に野生の動物にとってはすぐ隣にある問題。
それを、この作品では本筋にもギャグシーンにも盛り込んでいるのが印象的でした。
本筋では、フクロウのビッグママは母を失った子狐トッドを生き延びさせようと策を講じ、生き延びることが最優先であると幼いトッドに説きます。
それを聞く当のトッドは、人間に飼われているため衣食住にも困らず生命を脅かされることも無いためか少々当事者意識の薄い反応。
その結果として、度々猟師のエイモスとその猟犬チーフ絡みで自身の命を危険に晒しかねないトラブルを起こしてしまいます。
しかし物語の後半で森に返された瞬間から、トッドも否応なくその問題の当事者にならざるを得なくなるのです。
それでは、食事が与えられることが無く猟犬という天敵もいる過酷な環境で生き延びるために必要なものとは何なのか。
その答えは「生きるための知恵」。
それは野生動物として生きていくには必要不可欠かつ持っていて当然のもの。
かつて幼いトッドにビッグママが説いたことも、川の魚の捕り方も、罠の仕掛けられた地面に嫌な予感を感じて気を付けるのも、全て「生きるための知恵」なのです。
本来ならそれは適切な環境と指導する親の元で徐々に身に付けられていくものだけど、トッドの場合親を失ったことと人間に育てられたことで「生き延びることの重要性」と「生きるための知恵」の大切さを成長の過程であまり身に付けられなかったのだなあと思うと、つくづく育つ環境と親の存在の重要性もまたしみじみ感じられますね…
そして同様のテーマがギャグシーンでもコミカルな形で描かれています。
鳥のディンキー&ブーマーコンビとイモムシのスクイークの追いかけっこがそれです。
物語の最初から最後まで通して、ディンキーとブーマーはやっつける(=食べる)べくスクイークを必死に追いかけ、スクイークもスクイークで生き延びるためにその2羽から必死に逃れます。
最後には羽化して蝶になる形でスクイークの勝利に終わったこの追いかけっこの過程において両者は様々に知恵や策を巡らせ合うのですが、それもまたそれぞれの「生きるための知恵」の応酬なのです。
それから、動物と人間の関わり合う作品で扱われることの多い「動物に対する人間の身勝手さ」というテーマもこの作品を通して伝わってきました。
動物は自分が生き延びるために他の動物を食らい殺します。
何故かというと、それ以外に生き延びる方法が無いから。
一方で人間は、自身の直接的な生死に関わらない状況でも他の動物の生死に関与します。
それは、同じ犬科の動物なのに人間に飼われ生かされる犬と狩られ殺される狐というこの作品の本筋の構図に表れています。
確かに猟師であるエイモスは生計を立てるために狐を狩っていると言えばそうなのですが、狐を狩るというのが生き延びるための唯一の手段である訳ではありません。
トッドを拾ったトゥイード夫人にもまた、そのような身勝手さが見受けられます。
確かに親を失ったトッドを拾い育てたのは優しい行為でしたが、エイモスという脅威があったとはいえ成長してからトッドを森に返したのは少々エゴが過ぎると言うしかありません。
確かにトッドをエイモスの手から一時逃れさせることはできましたが、今まで一人で生活したことの無いトッドを森に放てばどうなるでしょうか。
餌を捕り方、天敵からの身の守り方、住居の見つけ方など、一人で生きるための経験とノウハウを何一つ持たない状態でいきなり森に放り込まれた動物が生き延びることが困難、場合によっては不可能であることは火を見るより明らかです。
幸いだったのは、トッドが人…というか動物に恵まれていて、ビッグママやヤマアラシ、ビクシーといった他の動物が手を差し伸べてくれたことですね…
このように、エイモスとトゥイードという人間の登場人物の動物への接し方を通し、自分の都合やエゴで動物の命を扱う人間の身勝手さが描かれていて、私自身も今まで関わってきた動物との接し方について色々と考えさせられました…
そしてここからがさらにこの作品の重要なテーマに関わってくることなのですが、その1つ目が「自分の立場に準ずるということ」。
我々現実の人間もそうですが、子供の頃は何も気にせず考えず無邪気に遊んでいることができても、大人になると誰もが自分の立場に準じなければならなくなります。
この作品ではトッドにとってそれは野生動物という立場であり、コッパーにとっては猟犬という立場です。
子供のうちは立場の垣根を考えず仲良く楽しく遊んでいた2匹ですが、時が過ぎ成長するとトッドは森へ返され、コッパーは狐を狩るようになります。
2匹のその変化は、大人として生き自分の属する社会で暮らしていくために生じたものです。
そして大人になり、守られる立場から社会に属する立場になったからには、否応にもその立場に準じなければならなくなります。
トッドは人間に飼われていたこともあり中々それを自覚できず、自分の命を危険に晒したり大きなトラブルを起こしたりしてしまい、コッパーはそれを比較的早いうちから自覚した上でトッドとの友情の間で揺れ動いた結果チーフを大怪我させてしまいます。
そして環境の変化や大きな痛みを伴う体験を経て、トッドは生き延びることを最優先にしなければならない野生動物としての、コッパーは狐を狩る猟犬としてのそれぞれの立場に準ずるようになったのです。
その2匹の変化が、次に書く内容にも大きく関わってきます。
最後に、恐らくこの作品の最大のテーマであることについて。
仲良く遊ぶ幼いトッドとコッパーは、「これからもずっと仲良しでいられる?」「違やしないさ」と言葉を交わし合いました。
しかし、秋口に猟犬として狐狩りを覚えるために長期の狩りへと出掛けるコッパーを見送るトッドに、ビッグママは「いつまでもとは長い時間のこと、長い時間は物事を変えてしまう」と伝えます。
冬を越え春になり、コッパーが帰ってくる頃には2匹の体は大きく成長しました。
そして同時に、先に書いたようなそれぞれの立場に準じなければならない大人になりました。
2匹はもう以前のように仲良く遊ぶことはできず、その関係も狩られる側狩る側という命のやりとりをしなければならないものになってしまったのです。
それは正にビッグママの言葉通りで、長い年月が二人を変えてしまったのです。
しかし、狩られる側狩る側の関係となったにも関わらず、トッドは熊に襲われていたコッパーを助け、コッパーもまた傷付き弱ったトッドをエイモスの銃口から庇います。
トッドもコッパーも、何故自分がそうしたかについては何も語りません。
けれどそれは確かに、二人の間の友情が成したことだったのです。
そして最後にもう一度聞こえてくる、幼いトッドとコッパーの「これからもずっと仲良しでいられる?」「違やしないさ」という言葉。
互いの立場の違いから最早昔のように仲良くすることができなくなった2匹でも、形は変われどそこにある友情は変わらなかったのです。
時が過ぎると物事は変わってしまう、けれどどんなに時が過ぎようとも変わらないものもある。
ビッグママの言葉も、幼い2匹の微笑ましい会話も、どちらもこの作品の最大のテーマを言い表したものでした。
…とまあ、今回はこんな感じにまとめてみました!
まとめたはいいけど、これ感想なのか…?
考察とはまた違うし、読み取ったこと?も何か変だよな…?
感想の定義がよく分からなくなってきたところで今回はここまで。
次回もまた映画を見たらこんな感じに感想?所感?をまとめていきたいと思います!
それでは~!