お久しぶりです
はろーはろー、お久しぶりさんのめありあんです。
ずっと放置してたのを久々にログインしてみたら、こんなに沢山の方にこのブログを見て頂けていた!
まだ全然大した記事も書いてなかったのに、ずっと放置していたのに、6月入って短い内にアクセス数が7もあるなんて…!
何の気も無くアクセス数のページを開いたらとてもびっくりすると共にこのブログを見て下さった皆さんへの感謝の気持ちが溢れました…!
ありがとうの気持ちでいっぱいです…!
これからも…うーん定期更新とはいかないかもだけど、書くことが思い浮かんだら書けていけたらいいなあと思いまする。
はてさて、今日思ったことをあれこれ。
Twitterで以前、どなたのツイートだったかは忘れてしまったけど、二次創作を投稿する際の自分の中でのその作品の位置付けについての呟きがありまして。
正確な文は覚えてないのが申し訳ないのだけれども、大まかに言えばその二次創作が自己満足によるものか承認欲求によるものかをしっかり考えておけと。
これ、Twitterで見た時から全くその通りだなあと思ってたのだけど、つい最近もしみじみ正しいなあと思うこと幾度。
というのも、一個前の記事(自分の好きって何だったんだろう http://mary-an.hatenablog.com/entry/2018/02/07/065009 )で書いてたあれやこれやの悩みの原因がどうもそこにあるような気がしてきたのです。
結論から言うと、確かに「好き」ではあったのです。
でもそれは、自己満足ではなく承認欲求によるものだったのです。
人は趣味においては誰しも自分の為、自分が満たされる為に行動するもの。
例えばオタクなら絵や小説を描く(書く)とか考察するとか。
それら全ては、原則として自分の為、自分の自己満足故の行動なのです。
絵を描くのはその内容の絵を見たいから、小説を書くのはその内容の小説を書きたいから、考察するのは自分の中の考えを表現したいから。
そしてそのどれもが何より、その行為が自分にとって楽しいものであるから。
その行動とその結果生まれた成果物によって、人は自分自身を満足させるのです。
しかしその一方、趣味とはコミュニケーションの手段として重要な一要素でもあります。
趣味が合う人とは話しやすい、話していて楽しい、趣味の話を一緒にしたい。
完全壁打ち一匹狼タイプのオタクであれば特に、一度はそんなことを思ったことがあるはず。
そんな趣味によるコミュニケーションにおいては、勿論話が合った方が楽しいし、相手の意見が自分と同じものであると会話が弾みやすい。
言語による直接的コミュニケーションでなかったとしても、例えばSNSに上げた絵にいいねが押される、ツイートにいいねが押される、感想をもらう。
その一つ一つが、何故だかとても楽しい。
それは相手からの同意や共感を得られることに等しいから。
それらの楽しさが積み重なって、段々二次創作やツイートはコミュニケーションの手段になっていく、目的がいいねを貰い同意され共感されるためにすり替わっていく。
そして、それは相手にとっても同じであると無意識のうちに理解していく。
だから、特に何とも思わなかった相手の絵に感想を送り、いまいちピンと来ないツイートにいいねを贈るのです。
その行為によって、相手もまた楽しさを感じることを知っているから。
その行為によって相手の中で自分に価値を生じさせ、相手からも肯定が帰ってくることを期待しながら。
きっとその期待が、所謂承認欲求なるものなのです。
その自己満足と承認欲求は、最初はバランスが取れている。
けれど次第に、例えば趣味の微妙な違いが分かってしまった時や、他のジャンルを好きになってしまった時、そのバランスは崩壊していく。
自己満足という動機が薄れ、承認欲求のみになっていく。
二次創作とは元来自己満足によって生まれるもの。
絵でも小説でも何でも、それによって自分が満足したいから作り出す。
それが二次創作の根本の動機、モチベーションの源泉。
でもそれが減退していくと、承認欲求のみが残される。
相手に好かれたいから、相手からいい反応をもらいたいから、相手との良好なコミュニケーションの手段として、二次創作をするようになってしまう。
ただその過程に自己満足という根源的な動機が存在しない分、モチベーションは大きく損なわれる。
相手がいい反応をもらえるように、力の入った感想をくれるようにと意識すればするほど、元来の動機である自己満足から遠く離れていく。
それはまるで、自由自在に創作の蔓を伸ばしていくのとは真逆、ご主人様に仕える召使のよう。
それじゃあ何を描いたって、楽しくなくて当たり前。
だって自分が見たいから、描きたいから描いたものではないのだから。
相手のために描くことで自分が肯定されるために描いたものだから。
ここ数ヶ月の私は、そんな風に減退していく自己満足と未だに残る承認欲求の間にいたのではないかなあと。
本当に好きかどうかを悩んでいたけれど、正しくは「自分の中での自己満足と承認欲求の境界を分かっていなかった」もしくは「自己満足ではなく承認欲求によるものであると認めたくなかった」のではないかなあと。
なんて、何となく考えてみたりしてました。
いやあ、何事にしても加減って難しいねえ…。