めるへにずむ主義者モドキのあれやこれや

映画とかを見たりした感想をまとめてみたり思ったことを何となく書いてみる、そんな感じです。

お久しぶりです

はろーはろー、お久しぶりさんのめありあんです。


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ずっと放置してたのを久々にログインしてみたら、こんなに沢山の方にこのブログを見て頂けていた!

まだ全然大した記事も書いてなかったのに、ずっと放置していたのに、6月入って短い内にアクセス数が7もあるなんて…!


何の気も無くアクセス数のページを開いたらとてもびっくりすると共にこのブログを見て下さった皆さんへの感謝の気持ちが溢れました…!

ありがとうの気持ちでいっぱいです…!

これからも…うーん定期更新とはいかないかもだけど、書くことが思い浮かんだら書けていけたらいいなあと思いまする。



はてさて、今日思ったことをあれこれ。

Twitterで以前、どなたのツイートだったかは忘れてしまったけど、二次創作を投稿する際の自分の中でのその作品の位置付けについての呟きがありまして。

正確な文は覚えてないのが申し訳ないのだけれども、大まかに言えばその二次創作が自己満足によるものか承認欲求によるものかをしっかり考えておけと。

これ、Twitterで見た時から全くその通りだなあと思ってたのだけど、つい最近もしみじみ正しいなあと思うこと幾度。

というのも、一個前の記事(自分の好きって何だったんだろう http://mary-an.hatenablog.com/entry/2018/02/07/065009 )で書いてたあれやこれやの悩みの原因がどうもそこにあるような気がしてきたのです。


結論から言うと、確かに「好き」ではあったのです。

でもそれは、自己満足ではなく承認欲求によるものだったのです。


人は趣味においては誰しも自分の為、自分が満たされる為に行動するもの。

例えばオタクなら絵や小説を描く(書く)とか考察するとか。

それら全ては、原則として自分の為、自分の自己満足故の行動なのです。

絵を描くのはその内容の絵を見たいから、小説を書くのはその内容の小説を書きたいから、考察するのは自分の中の考えを表現したいから。

そしてそのどれもが何より、その行為が自分にとって楽しいものであるから。

その行動とその結果生まれた成果物によって、人は自分自身を満足させるのです。


しかしその一方、趣味とはコミュニケーションの手段として重要な一要素でもあります。

趣味が合う人とは話しやすい、話していて楽しい、趣味の話を一緒にしたい。

完全壁打ち一匹狼タイプのオタクであれば特に、一度はそんなことを思ったことがあるはず。

そんな趣味によるコミュニケーションにおいては、勿論話が合った方が楽しいし、相手の意見が自分と同じものであると会話が弾みやすい。

言語による直接的コミュニケーションでなかったとしても、例えばSNSに上げた絵にいいねが押される、ツイートにいいねが押される、感想をもらう。

その一つ一つが、何故だかとても楽しい。

それは相手からの同意や共感を得られることに等しいから。

それらの楽しさが積み重なって、段々二次創作やツイートはコミュニケーションの手段になっていく、目的がいいねを貰い同意され共感されるためにすり替わっていく。

そして、それは相手にとっても同じであると無意識のうちに理解していく。

だから、特に何とも思わなかった相手の絵に感想を送り、いまいちピンと来ないツイートにいいねを贈るのです。

その行為によって、相手もまた楽しさを感じることを知っているから。

その行為によって相手の中で自分に価値を生じさせ、相手からも肯定が帰ってくることを期待しながら。

きっとその期待が、所謂承認欲求なるものなのです。


その自己満足と承認欲求は、最初はバランスが取れている。

けれど次第に、例えば趣味の微妙な違いが分かってしまった時や、他のジャンルを好きになってしまった時、そのバランスは崩壊していく。

自己満足という動機が薄れ、承認欲求のみになっていく。


二次創作とは元来自己満足によって生まれるもの。

絵でも小説でも何でも、それによって自分が満足したいから作り出す。

それが二次創作の根本の動機、モチベーションの源泉。

でもそれが減退していくと、承認欲求のみが残される。

相手に好かれたいから、相手からいい反応をもらいたいから、相手との良好なコミュニケーションの手段として、二次創作をするようになってしまう。

ただその過程に自己満足という根源的な動機が存在しない分、モチベーションは大きく損なわれる。

相手がいい反応をもらえるように、力の入った感想をくれるようにと意識すればするほど、元来の動機である自己満足から遠く離れていく。

それはまるで、自由自在に創作の蔓を伸ばしていくのとは真逆、ご主人様に仕える召使のよう。

それじゃあ何を描いたって、楽しくなくて当たり前。

だって自分が見たいから、描きたいから描いたものではないのだから。

相手のために描くことで自分が肯定されるために描いたものだから。


ここ数ヶ月の私は、そんな風に減退していく自己満足と未だに残る承認欲求の間にいたのではないかなあと。

本当に好きかどうかを悩んでいたけれど、正しくは「自分の中での自己満足と承認欲求の境界を分かっていなかった」もしくは「自己満足ではなく承認欲求によるものであると認めたくなかった」のではないかなあと。

なんて、何となく考えてみたりしてました。



いやあ、何事にしても加減って難しいねえ…。

自分の好きって何だったんだろう

はろーはろー。

 


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最近始めたクッキークリッカーがなかなか面白いんだけど、ここ数日数字が伸び悩んでるめありあんです。

 

 

映画の感想ではないけど、ここしばらく悩んでることについて少々。

 

私は二次創作をしているオタクです。

そして、昔からマイナーなものばかり好きになるんです。

考え方もアニメもキャラもcpも性癖も。

 

中々同志が見付からず、なぜ仲間がいないのかと嘆きながらTwitterでもそもそと壁打ちする毎日。

そんな中で、偶然同じ考え方だったり、同じアニメ・キャラ・cp・性癖が好きな人が見つかると舞い上がっちゃうんです。

この人と仲良くしたい、たくさん語りたい、いっぱい遊びたいって。

そして実際仲良くなるんです。

たくさん語って、褒め合い励まし合ってお互いたくさん作品を描くんです。

そんな毎日が楽しくて楽しくてたまらない。

 

でも、ふと何かのきっかけで他の好きなものができた時不安になった。

いや、もしかしたらそれ以前から意識していなかっただけで抱えていたのかもしれない。

 

「私は本当にそれが好きだったのか」と。

 

数少ない仲間に話を合わせるために、自分の好きなものを偽っていたのではないか。

仲間と仲良くしたくて好きなつもりでいたそれが、本当は好きではなかったのではないか。

無理に合わせようとするのは苦痛だし仲間に嘘はつきたくないから、自分に嘘をついてそれが好きだと思い込んでいただけではないのか。

そう思うと、過去の自分の「好き」に自信が持てなくなりました。 

 

 

二次創作は自分の「好き」という気持ちをエネルギーに作り出すものです。

でも、ふと活動ジャンルが変わった時思ったのです。

その「好き」は誰に対しての好きだったんだろう。

私の中の本当に好きだったものは何だったんだろう。

私が本当に好きなものって何だったんだろう。

 

 

Twitterには書けないけどちょっと気持ちを整理したかったのでここで書いてみました。

悩みの答えはまだ見つからないけれど、とりあえず今の自分が好きだと思うものを描いていこうと思います。

 

 

 

映画感想『きつねと猟犬』

おねむのファルルだよ!

 

生活リズムがガタガタで寝不足だったり寝過ごしたりと褒められたものではない生活を送っております。

どう考えても自業自得だし直さねばなあ…

 


そんな中で私が見た今回の映画はこちら!



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きつねと猟犬

 

1981年公開のディズニー映画。

ちなみに日本での公開は83年、東京ディズニーランド開園記念に同時上映のバンビと共に公開された映画をだそうな(ソースwiki)

ちなみにバンビは本国での公開は42年、日本での初公開は51年だそうな。

戦時中も映画を作り続けることのできたディズニーとアメリカ凄い。

まあディズニーも大戦前後はプロパガンダアニメとか作ってたらしいけれどね、そこの辺りも興味深いので今度ちゃんと調べてみようかなあ。


余談はさておきざっとあらすじ。

猟師に母を殺された子狐トッドは人間の夫人に拾われペットとなった。そこで夫人の隣人の猟師の飼っている猟犬の子犬コッパーと仲良くなる。しかし狐と猟犬という立場の違いから、やがて2匹は離ればなれになり追う側追われる側の関係になってしまう。成長し森へ返されたトッドは、追われる側の立場ながらも熊に襲われていたコッパーを助け、コッパーもまた追う側の立場でありながら猟師に銃を向けられたトッドを救おうとする。


といった感じ。

 

実はこの映画、見たことはなかったけど子供向けにノベライズされたものを昔読んだことはありました。

細かい部分は全然覚えて無かったけど、トッドとコッパーの出会いのシーンと最後のコッパーがトッドを庇うシーンは凄く印象に残ってたなあ…

 


感想


何よりまず感じたのは、動物を扱う作品においてはまず欠かせない「生き延びることの重要性」。

お金さえあれば衣食住に困ることはなく命を脅かす天敵もいない人間と違って、生きるか死ぬか、食うか食われるかは特に野生の動物にとってはすぐ隣にある問題。

それを、この作品では本筋にもギャグシーンにも盛り込んでいるのが印象的でした。

本筋では、フクロウのビッグママは母を失った子狐トッドを生き延びさせようと策を講じ、生き延びることが最優先であると幼いトッドに説きます。

それを聞く当のトッドは、人間に飼われているため衣食住にも困らず生命を脅かされることも無いためか少々当事者意識の薄い反応。

その結果として、度々猟師のエイモスとその猟犬チーフ絡みで自身の命を危険に晒しかねないトラブルを起こしてしまいます。

しかし物語の後半で森に返された瞬間から、トッドも否応なくその問題の当事者にならざるを得なくなるのです。


それでは、食事が与えられることが無く猟犬という天敵もいる過酷な環境で生き延びるために必要なものとは何なのか。

その答えは「生きるための知恵」。

それは野生動物として生きていくには必要不可欠かつ持っていて当然のもの。

かつて幼いトッドにビッグママが説いたことも、川の魚の捕り方も、罠の仕掛けられた地面に嫌な予感を感じて気を付けるのも、全て「生きるための知恵」なのです。

本来ならそれは適切な環境と指導する親の元で徐々に身に付けられていくものだけど、トッドの場合親を失ったことと人間に育てられたことで「生き延びることの重要性」と「生きるための知恵」の大切さを成長の過程であまり身に付けられなかったのだなあと思うと、つくづく育つ環境と親の存在の重要性もまたしみじみ感じられますね…


そして同様のテーマがギャグシーンでもコミカルな形で描かれています。

鳥のディンキー&ブーマーコンビとイモムシのスクイークの追いかけっこがそれです。

物語の最初から最後まで通して、ディンキーとブーマーはやっつける(=食べる)べくスクイークを必死に追いかけ、スクイークスクイークで生き延びるためにその2羽から必死に逃れます。

最後には羽化して蝶になる形でスクイークの勝利に終わったこの追いかけっこの過程において両者は様々に知恵や策を巡らせ合うのですが、それもまたそれぞれの「生きるための知恵」の応酬なのです。

 


それから、動物と人間の関わり合う作品で扱われることの多い「動物に対する人間の身勝手さ」というテーマもこの作品を通して伝わってきました。

動物は自分が生き延びるために他の動物を食らい殺します。

何故かというと、それ以外に生き延びる方法が無いから。

一方で人間は、自身の直接的な生死に関わらない状況でも他の動物の生死に関与します。

それは、同じ犬科の動物なのに人間に飼われ生かされる犬と狩られ殺される狐というこの作品の本筋の構図に表れています。

確かに猟師であるエイモスは生計を立てるために狐を狩っていると言えばそうなのですが、狐を狩るというのが生き延びるための唯一の手段である訳ではありません。

トッドを拾ったトゥイード夫人にもまた、そのような身勝手さが見受けられます。

確かに親を失ったトッドを拾い育てたのは優しい行為でしたが、エイモスという脅威があったとはいえ成長してからトッドを森に返したのは少々エゴが過ぎると言うしかありません。

確かにトッドをエイモスの手から一時逃れさせることはできましたが、今まで一人で生活したことの無いトッドを森に放てばどうなるでしょうか。

餌を捕り方、天敵からの身の守り方、住居の見つけ方など、一人で生きるための経験とノウハウを何一つ持たない状態でいきなり森に放り込まれた動物が生き延びることが困難、場合によっては不可能であることは火を見るより明らかです。

幸いだったのは、トッドが人…というか動物に恵まれていて、ビッグママやヤマアラシ、ビクシーといった他の動物が手を差し伸べてくれたことですね…


このように、エイモスとトゥイードという人間の登場人物の動物への接し方を通し、自分の都合やエゴで動物の命を扱う人間の身勝手さが描かれていて、私自身も今まで関わってきた動物との接し方について色々と考えさせられました…

 


そしてここからがさらにこの作品の重要なテーマに関わってくることなのですが、その1つ目が「自分の立場に準ずるということ」。

我々現実の人間もそうですが、子供の頃は何も気にせず考えず無邪気に遊んでいることができても、大人になると誰もが自分の立場に準じなければならなくなります。

この作品ではトッドにとってそれは野生動物という立場であり、コッパーにとっては猟犬という立場です。

子供のうちは立場の垣根を考えず仲良く楽しく遊んでいた2匹ですが、時が過ぎ成長するとトッドは森へ返され、コッパーは狐を狩るようになります。

2匹のその変化は、大人として生き自分の属する社会で暮らしていくために生じたものです。

そして大人になり、守られる立場から社会に属する立場になったからには、否応にもその立場に準じなければならなくなります。

トッドは人間に飼われていたこともあり中々それを自覚できず、自分の命を危険に晒したり大きなトラブルを起こしたりしてしまい、コッパーはそれを比較的早いうちから自覚した上でトッドとの友情の間で揺れ動いた結果チーフを大怪我させてしまいます。

そして環境の変化や大きな痛みを伴う体験を経て、トッドは生き延びることを最優先にしなければならない野生動物としての、コッパーは狐を狩る猟犬としてのそれぞれの立場に準ずるようになったのです。

その2匹の変化が、次に書く内容にも大きく関わってきます。

 


最後に、恐らくこの作品の最大のテーマであることについて。

仲良く遊ぶ幼いトッドとコッパーは、「これからもずっと仲良しでいられる?」「違やしないさ」と言葉を交わし合いました。

しかし、秋口に猟犬として狐狩りを覚えるために長期の狩りへと出掛けるコッパーを見送るトッドに、ビッグママは「いつまでもとは長い時間のこと、長い時間は物事を変えてしまう」と伝えます。

冬を越え春になり、コッパーが帰ってくる頃には2匹の体は大きく成長しました。

そして同時に、先に書いたようなそれぞれの立場に準じなければならない大人になりました。

2匹はもう以前のように仲良く遊ぶことはできず、その関係も狩られる側狩る側という命のやりとりをしなければならないものになってしまったのです。

それは正にビッグママの言葉通りで、長い年月が二人を変えてしまったのです。


しかし、狩られる側狩る側の関係となったにも関わらず、トッドは熊に襲われていたコッパーを助け、コッパーもまた傷付き弱ったトッドをエイモスの銃口から庇います。

トッドもコッパーも、何故自分がそうしたかについては何も語りません。

けれどそれは確かに、二人の間の友情が成したことだったのです。

そして最後にもう一度聞こえてくる、幼いトッドとコッパーの「これからもずっと仲良しでいられる?」「違やしないさ」という言葉。

互いの立場の違いから最早昔のように仲良くすることができなくなった2匹でも、形は変われどそこにある友情は変わらなかったのです。


時が過ぎると物事は変わってしまう、けれどどんなに時が過ぎようとも変わらないものもある。

ビッグママの言葉も、幼い2匹の微笑ましい会話も、どちらもこの作品の最大のテーマを言い表したものでした。

 


…とまあ、今回はこんな感じにまとめてみました!

まとめたはいいけど、これ感想なのか…?

考察とはまた違うし、読み取ったこと?も何か変だよな…?

感想の定義がよく分からなくなってきたところで今回はここまで。

次回もまた映画を見たらこんな感じに感想?所感?をまとめていきたいと思います!

 

それでは~!

映画感想『アトランティス/失われた帝国』

ぐーてんもるげん!

 

初めましてが済んだのでいざ内容を書いていこうかなと思いまして、まずは直近見た映画の感想をば。


映画の感想、実は今までずっとTwitterで書いていたのだけど、今回はブログにまとめてみようと思います。

140字以下の短文の乱れ撃ちと長文でまとめるのとではまた勝手も違ってくるから上手く書けるかは不安だけれども、まあとりあえずはやってみよう!

 


ということで、今回見た映画はこちら。


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アトランティス/失われた帝国

 

2001年公開のディズニー映画。

ざっとしたあらすじは以下のような感じ。


博物館勤めの言語学者マイロは、祖父から引き継いだ独自のアトランティス研究を公表しようとするも誰にも真に受けてもらえない。

そんな折に、祖父の親友の援助を得てアトランティス探求の旅へのチケットを手に入れる。

自分を邪険にしていた探検隊の仲間から徐々に信頼を得ながら、マイロ達一行は遂にアトランティスに辿り着く。

そこでマイロはそこで生活していたアトランティス人の王女キーダと心を通わせる。

しかし、探検隊の司令官ロークはアトランティスのクリスタルで金を得るべくアトランティス人に銃を向け、クリスタルと一体化したキーダを拐う。

キーダを助けるため、アトランティスの文明を守るため、マイロは仲間達と共に戦うことを決意する。

 

今調べて知ったのだけど、実はこの映画が公開された2001年はかのウォルト・ディズニーの生誕100周年の年だったそうな(ソースはwiki)。

あまり知名度の高い作品ではなく、人からこの作品のタイトルを聞いたことがあるなんて人も少ないのでは…


そんな本作だけど、とあるディズニー好きの友人が過去におすすめしてくれていたこともあり今回吹き替え版を見てみることにしました。

ネタバレが含まれるので苦手な方はご注意下さいませ!

 


感想


まず感じたのは、この映画の面白さは映画としての面白さではないな、ということ。

面白さの種類としてはエンターテイメントの一分野である映画としてのそれではなく、むしろドキュメンタリーのものに近いかなと感じたんです。

映画としての面白さを追求する作品なら、観客をより惹き付けるための展開の緩急や強調、脚色が重要になります。

だけど、この映画にそのような要素はあまり見受けられない、というよりあえて入れていない。

それが顕著に見られるシーンが、主人公マイロに対しその祖父の友人ウィットモアがアトランティス探求の冒険のための準備を見せるシーン。

アトランティス探求にマイロが必要と言ったものはウィットモアの手によってノータイムで用意されるんだけど、その準備の過程は全てカットされ、結果だけがぽんぽんと並べ立てられていく。

内容を脚色せず、ただ不要な部分は全てカットし必要な部分だけ観客に見せる感じがドキュメンタリーに似ているなあと。


きっとこの作品がエンターテイメントとしての映画の面白さを追及する作品だったとしたら、準備に当たってのウィットモアの苦労苦節が描かれ、友人の遺志をその孫に託すというカタルシスを観客に感じさせるような脚色が施されていたような気がするなあ。

 


それからマイロには及ばないけど言語を学ぶ人間として、言語の持つ可能性に改めてハッとさせられました。

これは個人的な感覚なんだけど、言語って一人でちまちま黙々と学んでる時はつい「こんなことを学んで何の役に立つんだろう」なんて思っちゃいがちだったりする。


でも実際はそんなことはないんです。

マイロはシュメール語等の数多くの古代言語を学び、アトランティス語の解読に至った。

そしてそのアトランティス語によって探検隊とアトランティス人との橋渡し役になれた。

しかも、現代のアトランティス人でも読めなかったアトランティス語が読めることで、失われかけていたアトランティスの過去の多くの遺産を復活させることができた。


これは言語が異文化同士を繋ぐ橋としての横の機能、過去から学び現在へ活かす鍵としての縦の機能を持っているからなのです。

それは現実の我々にとっても同じことで、異国の言語を学べばその国の人と交流できるし、自国の過去の言語を学べば昔の自国の文化や歴史を知り教訓を得ることができます。

こうして書いてみると当たり前のように思えて、実はけっこう凄いことだったり。

個人的にこうして言語を学んだことが活かされているのを見ると元気付けられるなあ…。

 


そして、この映画の主人公のマイロのことについて。

これが色々考えてみると面白くて中々まとまらなかったのですよね…。

なのでとりあえず、①マイロの功罪 についてと②マイロの認識と行動指針の変化 について書いていこうかなあと思います。

 

①マイロの功罪


祖父から引き継いだ研究をひたむきに続け遂にアトランティスを発見し、最後にはアトランティスを救ったマイロ。

そんな彼のストーリーにおける功罪をみていきます。


前述のように、マイロは持ち前の言語学のスキルを使い、アトランティス人にも読めなかったアトランティス語を解読できてしまいました。

それは、人々に忘れられ死につつあったアトランティスの文明を甦らせることに他ならないのです。

それが最も分かりやすく表現されているのが、キーダのクリスタルを使って今まで動かすことのできなかった魚の乗り物を起動させるシーン。

マイロの尽力によりクリスタルの光に満たされた乗り物が再び動き出した瞬間、死にかけていたアトランティスの文明もまた息を吹き返したのです。


一方で、マイロはゆっくりと死に向かいつつも平和であったアトランティスに、ローク(と改心する前のクルー達)という金のために人を傷付け文明を殺すことを厭わない人間達を導いてしまったのも確かなことなのです。

マイロ本人は純粋に知的好奇心がアトランティスへの探検の理由で悪気はなかった。

けれどその純粋さを利用され、自らの手で息を吹き返した文明を金のために再び殺す手助けをしてしまった。

いかに高度な文明であっても、そこに暮らす人々が傷付けられ排斥されれば、その文明は死んでしまう。

マイロは作中でその事実に直面し、自分のしてしまったことの重大さに気付き深い自責の念に駆られます。


だからこそ、事件が収束した後マイロと改心したクルー達は生きたアトランティスの文明の存在を秘匿することにしたのです。

再び外部の人間の手によりアトランティスの文明が殺されることの無いように、同じ過ちが繰り返されないように。

 

②マイロの認識と行動指針の変化


マイロの認識と行動指針の変化においては文明の生死が重要なファクターになります。

これまでにも何度か書いたように、文明にも生死があります。

既に滅び過去のものとなった死んだ文明、そこで生きる人々がいて、過去の知識と遺産を使いながら生活している生きている文明。


アトランティスへの探検を始めた当初、マイロのアトランティス文明への認識は前者でした。

アトランティスははるか昔に海に沈んで滅びた古代文明であると。

ところが実際アトランティスに到達してみると、そこではまだ人が生きて生活していた。

確かに文字や技術などの過去の遺産は忘れられ失われつつあったけれど、アトランティスの文明はまだ生きていた。


この認識の変化は、アトランティス文明に対するマイロの行動指針にも変化をもたらしました。

当初マイロはアトランティスという既に死んでいる文明の存在を証明し、そこから得られたものを公表しようとしていた。

けれど物語の最後には、マイロはあんなにも切望していたアトランティスの存在を世界に証明しようとはせず、逆に秘匿し文明を守ることにした。

マイロのアトランティスへの考えと行動は、生きているアトランティスの文明を目の当たりにすることで変わっていったのです。


この変化はもちろん生きているアトランティス文明を目にしたことで起きたものなんだけど、実は一番大きくマイロに影響を与えたのはキーダと心を通わせたことなのです。


当初マイロは、研究者の視点からアトランティスの文明を見ていた。

けれど言葉を交わし心を交わすことで、マイロはキーダと研究する者される者の関係になるのではなく、同じ生きている人間として対等の目線に立った。

だからこそ、マイロはアトランティス文明を守る方向へと認識と行動を変化させるだけに留まらず、最後には生きている人間としてアトランティス人と共にあることを選んだのです。

 


最後にちょっと思ったことを一つ二つ。


古代文明の謎を解き明かす中で悪人が自分の欲望でその文明を利用しようとするSF作品というと、庵野監督のふしぎの海のナディアや宮崎監督の天空の城ラピュタなんかがよくこの作品と一緒に挙げられます。

この二作品はどちらもJ.ヴェルヌ作『海底二万里』にルーツを持つ作品。

ここら辺の詳しい経緯と関連性は他の人が詳しく書いてくれてるから調べてみるとよきですよ!


とまあ余談はさておき、題材やストーリーが似ているこの三つの作品の中で、アトランティスだけがラスボス(ローク)の目的が金であったことがちょっぴり意外だったのですよ。

上記の二作品では、ラスボス(ガーゴイルムスカ)の目的はどちらも古代文明に秘められた力を使った世界征服。

古代文明の持つ金銭的価値と軍事的な力。

どちらをメインに作品を作るかでまた変わってくるものがあるのね…。

 


という訳で、アトランティス/失われた帝国の感想でした!

こういうのをしっかり長文にまとめるの久々すぎて腕の鈍りが否めないのがつらいなあ…。

でもまあ、こんな感じで今後も書いていけたらなあと思います!

 

それでは〜!

初めましてさんです

初めまして、私めありあんと申します。

 

日々思ったことや映画の感想など、何となく個人的にまとめてみようかなあとか考えてみてブログ作ってみました。

好きな映画はディズニーとジブリティム・バートン、後ホラー映画とストップモーションアニメ。

漫画やアニメ、ゲームもするけど、さしあたってはこの辺りの映画を中心に、気の向くのままに見た感想とか書いてみます。

 

 

twitterの経験はあれどブログは初めてなのでまだまだ分からんことは多いですが、これから自分なりに頑張って色々書いてみようかなと思います。

 

拙い文書だけれども、どうぞよろしくですです。